宮沢りえの若い頃が”波瀾万丈”すぎる!!可愛いすぎ伝説美少女の現在は?

13歳でモデルデビューした宮沢りえさんは、その可愛らしい容姿と自然な笑顔で多くの人々を魅了。瞬く間にトップアイドルとなり、その後も女優として成功を収めました。そんな日本人が憧れた伝説の美少女も若い頃には多くの苦労があったようです。その波瀾万丈な人生と現在でも変わらず美しい宮沢りえさんに注目してみました!

目次

清純派アイドル→ヌード写真集、恋愛遍歴も波瀾万丈!!

宮沢りえさんの経歴まとめ

宮沢りえさんは、11歳でモデルデビューし、セブンティーンの表紙を飾ります。その後、「三井のリハウス」のCMで初代リハウスガール”白鳥麗子”を演じ、その飛び抜けた可愛さから一躍トップアイドルとなりました。

1988年に公開された「ぼくらの七日間戦争」では主演としてデビューし日本アカデミー賞新人賞を受賞しました。

1989年にはフジテレビ系列でドラマ初主演、同年には小室哲哉プロデュースで歌手デビュー。セカンドシングルではオリコン初登場1位を獲得しその年の紅白歌合戦にも出場を果たしました。

1991年に18歳で初めてのオールヘアヌード写真集「Santa Fe」を発売。世界中で話題となりました。

1992年、貴乃花光司さんと婚約を発表。当時人気絶頂のお二人の婚約に日本中が騒然としましたが、のちに婚約解消を発表。わずか2ヶ月間の婚約者となったのでした。

その後、出演が決まっていた映画を突如降板する騒動を起こしたり、様々なスキャンダルもあり、アメリカサンディエゴの移住とともに一時芸能活動の休止状態になっていました。徐々に復帰の兆しを見せ、2001年には香港映画に出演し、モスクワ国際映画祭・主演女優賞を獲得。2003年「たそがれ清兵衛」では再び日本アカデミー賞・最優秀主演女優賞を受賞しました。

2013年天海祐希が突然入院することになり舞台の代役を引き受けわずか2日間の稽古で2時間以上の舞台での長台詞を見事に演じ切ったことは今でも語り継がれています。

私生活では、2009年突如妊娠を発表し、その後婚姻届を提出。同年長女を出産しています。お相手はハワイ在住の日本人実業家で元プロサーファーということが明らかにされています。

その後、2012年に離婚協議中であることが公表され、2016年に離婚成立、宮沢さんはシングルマザーとなりました。

2014年、最愛の母・光子さんが亡くなります。「りえママ」との呼称で有名だったステージママで、常にりえさんの芸能活動を支えてきましたが、その手腕は大胆でビートたけしも驚くほどだったと言います。

2018年、現在の夫、元V6の森田剛さんと結婚。森田さんは宮澤姓となって家族三人幸せに暮らしているようです。

宮沢りえ

出身地:東京都

生年月日:1973年4月6日

血液型:B型

身長:167㎝

事務所:MOSS (2021年夫 森田剛と新事務所設立)

日本人の母、オランダ人の父とのハーフ。

異母兄弟・異父兄妹がそれぞれいたり、生まれた頃に母はりえさんを置いていなくなってしまったそうで幼少期は叔母や祖父母に育てられるなど育った環境も特殊だったようです。

写真集「Santa Fe」とは?

宮沢りえさんの写真集「Santa Fe」は1991年に出版され、18歳のヘアヌード写真集という事で大きな話題となりました。この写真集は、日本国内だけでなく、世界的にも注目を集めましたが、特に日本で、その大胆な内容と宮沢りえさんの当時の人気から、社会現象とも言えるほどの反響を呼び、165万部以上の売上を記録しました。これは日本では異例の記録で未だ破られていません。

世界的には、アート写真集として評価され、特に宮沢りえさんの自然体の美しさと篠山紀信の撮影技術が高く評価されました。写真集の発売後も宮沢りえさんのキャリアは順調に進み、女優としても多くの賞を受賞しています。「Santa Fe」は、彼女のキャリアにおいて重要な作品であり、今でもその影響力は語り継がれています。

まとめ

いかがでしたか?現在の落ち着いた雰囲気の素敵な女性宮沢りえから想像しずらいほど波瀾万丈な芸能生活、そして私生活も多くの男性遍歴を持つなど驚かされる人生経歴。浮世を流した男性芸能人は数知れず…それもステージママである光子さんの戦略だったとの噂もあるなど、お母様の影響が強く反映された若い頃の芸能生活、そして、母・光子さんが亡くなってからも立ち止まらず女優としての成長し続け、大きな幸せをも手にしました。

伝説の美少女が様々なスキャンダルを経て、成長し幸せをつかんだ彼女は間違いなく、日本を代表する女優「宮沢りえ」です。

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